ひろしせんせーのひとりごと。

44歳の脱サラ保育士ひろしせんせーが書いています。

長男、不登校になる②~不登校のはじまり

長男は高校2年の正月明けから学校に行かなくなりました。

 

それまでも何度か学校をサボるということはありましたが、連続して行かなくなることは初めてでした。親としては、もう小学生ではないので無理やり起こして連れていくことはできないし、頭ごなしに怒るのも違うと思っていたので、「毎日時間になったら起こす」ということしかできませんでした。

 

きっかけは、前の年の春から始まった新型コロナの流行でした。

多くの学校がそうであったように、コロナによって休校となり、オンラインによる授業に切り替わりました。長男は昔から宿題が進まない子でしたから、家で動画を観て勉強するのは明らかに向いていませんでした。長男の学校では高校2年の1学期がすべてオンライン授業で、試験の代わりに課題が課されました。長男はこの課題に取り組むことができず、ほとんど手を付けられない状態で2学期を迎えました。幸い2学期は登校が開始したのですが、課題が提出されなければ1学期の評価をつけることができないため、先生から放課後に残ってでもやるように言われました。この課題に長男の何かが引っ掛かったようで、先生から言われれば言われるほど頑なになり、それほど難しいものではないにもかかわらず、取り組めなくなっていきました。

それでも先生のおかげで2学期の終わりには残り数教科というところまで提出することができました。しかし、2学期にも試験はあるわけで、課題に取り組んだ結果、試験の成績が下がり、数教科で赤点をとりました。赤点を取った場合、追試や課題をこなさなければなりません。頑張って1学期の課題をクリアしていったのに、また2学期に赤点をとって、課題が増えてしまったわけです。

やがて長男にのしかかっていった課題と言う重圧が、正月休みを挟んで爆発してしまいました。

 

年明け初登校日は1月4日でした。私たち親は共働きで、二人とも初仕事の日だったので、いつも通り家を出ました。長男も何度も声をかけてようやく起き、何とか学校に間に合う時間に家を出ました。だいぶ渋っている様子はあったのですが、年末年始の生活リズムの乱れが出ているくらいにしか思いませんでした。しかし、この日は登校せずに、近所をぶらぶらして昼過ぎに家に帰ってきたようでした。それがわかったのは、学校から電話があったからです。無断欠席の場合、必ず学校から電話がかかってくることになっており、これまでも何度か同じことがあったので、「またか」くらいにしか思いませんでした。帰宅してから長男には、厳しく言っても頑なになるだけなので、何故行きたくなかったのか、明日は行くようにとだけ伝えました。

翌日、朝起きると長男の姿がベッドにありませんでした。登校が嫌で逃げたのだなと直感しました。長男の行きそうなところを自転車で回って30分ほどでしょうか、偶然にも道路を歩いているところを見つけることができました。長男はこの日、夜寝ることができずに徹夜をし、家族が起きる時間に家を出たとのことでした。しばらく一緒に歩き、学校に行きたくないのなら理由を教えてくれないかと聞きましたが、答えらしい答えはありませんでした。ならばせめて家を出ていくようなことは心配なのでしないでほしいとだけ伝えました。この日から、長男の不登校が始まりました。

 

翌週から、長男は朝ベッドから出てこなくなりました。毎日時間通りに起きるように声をかけ続けましたが、まったく出てきませんでした。長男と二人になる時間を作って、なぜ学校に行きたくないのか教えてほしい、できることは何でも手伝うと伝えましたが、長男自身にも理由ははっきりわからないようで、話し合いに答えは出ませんでした。同じ時間だけが流れ、2週間が経った頃、学校の先生と面談をし、先生から直接電話で長男と話してもらいました。同じころ、長男もさすがにそろそろ戻ろうかと思ったのか、夜中に課題をやっている様子もありました。しかし、結果的に学校に行くことはありませんでした。長男自身もそんな自分にショックを受けている様子で、表情が暗い日や食事が進まない日が出るようになりました。またどこかイライラしている様子もありました。

 

はじめの1か月くらいは、毎日朝の同じ時間に起きるように声をかけ、いつ出かけてもいいようにお弁当を用意していました。しかし声をかけても返事はないし、お弁当を作っても手を付けない日が出てきました。長男はずっとベッドにもぐりこんでいるわけではありませんでした。夕飯は家族と一緒に食べたし、外食に出ることもしていました。中学時代の友達に誘われて遊びに行くこともありました。だからこそ本人は「やろうと思えばできる」くらいに思っていたのだと思います。行こうと思っても行けないとわかり、それがさらに自己否定につながり、さらに悪化するといったサイクルに陥っているように見えました。

 

不登校になって1か月が過ぎた2月、先生から進級に関する話が出ました。長男の場合、進級のためには、授業日数だけでなく、1学期の課題も提出しなければなりませんし、3月には学年末テストもあります。明日から頭が180度回転しない限りは無理と思えるような難題でした。長男はもともと課題提出が難しいために不登校になりました。そんな長男に進級ができなくなるから登校して課題をやれと言っても、無理でしょう。そんなに簡単ならとっくに課題に取り組んでいます。長男には長男なりの理由があって、その理由を解きほぐさない限り、登校や課題はできないはずです。

 

2月が終わり3月に入ろうかという頃、突然長男が「学校に行く」と言いました。

その日は月曜日で、前日に中学時代の友人に会っていました。それが刺激になったのか、朝早くに起きてきて、制服に着替え、いつも通りの時間に出かけていきました。私はその日、仕事の都合で朝早く出かけていたので、母親が慌ててお弁当を用意したと言っていました。ただ、次の週からテスト期間に入り、授業日数的にも厳しいため、タイミング的には遅すぎでした。実は長男にもそれがわかっていたのかもしれませんでした。次の日から、また学校には行きませんでした。もしかしたら長男なりに級友にお別れをしたかったのかもしれません。

 

私自身、長男の長い人生を見据え、不登校が解消されたとしても、その先に就職して自立していくという未来が見えるかどうかが重要だと考えていました。だから進級云々よりも、この難局をどう乗り越えるかが大切だと考えていました。数日おきに長男と二人で話すようにしていましたが、長男は話を嫌がり、適当な生返事を繰り返していました。留年が確実となったこの時期、親として次にどうすべきか、悩んだ時期でもありました。