ひろしせんせーのひとりごと。

44歳の脱サラ保育士ひろしせんせーが書いています。

長男、大学を目指す①

長男は、コロナ禍真っ只中の高校2年生の頃から不登校となり、転学を経て何とか高校を卒業しました。その後アルバイトをして社会とのつながりを持つようになりました。(ここまでの経緯は「長男、不登校になる」シリーズで。)

さて、高校を卒業してから1年が経過し、アルバイト生活も軌道に乗ってきた4月のある日、テレビを見ていると長男が突然「真面目な話をしてもいいかな」と話しかけてきました。

「大学を目指そうと思うんだけど」

青天の霹靂。急転直下。寝耳に水。私は長男はアルバイト生活ができているので「今はこれで良し」と思っていました。まだ19歳ですから、何年か考える時期があっても全然OKだし、昼夜逆転だった長男が1年やそこらで正社員として働けるようになるなんて思っておらず、少しずつ成長していってくれればいいと思っていました。まして勉強についていけずに不登校になった長男が大学を目指そうなんて、どんな心境の変化が?

私はなるべく平静を装い、「うん、いいんじゃないの」と答えました。

話していると、長男は何の勉強をどうやってすればいいのか、どんな大学を目指せばいいのか、具体的に何をすればいいのかわからないといった感じでした。じゃあまず、不登校になって辞めてしまった塾に行くことを提案しました。幸い長男に辞めてしまった負い目などはないようで、まずは私が塾に連絡を取ることにしました。

しかし、話しながらずっと私は迷っていました。今更大学に行くことにどんな意味があるのか?大学を出ても就職に結びつくわけではないし、コミュニケーションが苦手な長男が大学で友達をたくさん作れるわけでもない。何となく目指して入る大学では何も学ばずに卒業なんてことも多いにあり得る。メリットがないばかりか、受験に失敗したり、入学できても中退したりして、再び心に傷を負うリスクすらある。メリットのないリスクを目指すことにどんな意味があるのか。

その後、妻をはじめ何人かの人に長男の心境の変化について相談したところ、全員が全員、長男の気持ちを肯定的に捉えてくれました。職場の上司は、普通の高校生は「何となく」大学に行く。でも長男は「自分で決めた」。うまくいってもいかなくても、その経験は残ると言ってくれました。それらの言葉のおかけで、長男がやりたいと言っていることをできる限り応援してあげるのが親の務めだと強く思えるようになりました。

さて、塾に連絡を入れる前に、高校を中退してしまった人が大学を目指すってことは聞いたことがあるし、そういう人は実際どうやって勉強しているのか疑問に思いました。検索してみると、いくつかの予備校には「高卒認定コース」というものがあり、高卒認定試験から大学受験を目指すコースがあるようでした。さらに調べると、高卒認定を専門にしている塾もあるようでした。しかし、長男にはせっかく社会とのつながりを持てたアルバイトを辞めてまで大学受験をするのではなく、あくまでアルバイトと並行しながら受験勉強を進めてもらいたいと思っていました。そのためには自宅から近く、慣れた環境の塾に通うのがベストと思いました。

ゴールデンウィークを直前に控えた日の午後、長男と一緒に塾に面談に伺いました。これが長男の大学受験のスタートになりました。

40歳おじさん保育士になる③

前回「40歳おじさん保育士になる」のタイトルで書いてから2年余りが経過しました。実際に保育園業界に足を踏み入れてから3年が経過した私の現在地について書きます。

 

私は「保育園で働こう!」と思ったときには保育士資格受験中でしたが、資格を取れるかどうかはまだわからない状況でした。そんな人間を保育園で雇ってくれるはずはないと思っていたのですが、事務職の募集があり、保育士としてではなく事務職として保育園で働くこととなりました。幸いにして保育園で働き始めてすぐに保育士資格を取得したわけですが、実際に保育園で保育士の仕事を見ると「保育」という仕事がどれだけ奥深いかがわかりました。乳児で保育園にやってきた子が安心して過ごせるように愛情をかけ、生活リズムを整えられるように工夫をし、子どもの人権を尊重しつつ個性を伸ばせるように支えることを、同時並行して行うためにはたくさんの正解があって、担任保育士同士が話し合って最善の保育を目指す。その創意工夫と努力は外部からではなかなか見えないものでした。

40歳を過ぎた私と同年代の保育士はもう経験20年のベテランです。そんなベテランと肩を並べるには、努力だけでは足りません。私がこれまで培ってきたものや保育園に不足しているものを自分の強みとして出していくことが必要です。そう考えた私は、事務職員として働く傍ら、保護者支援の視点から意見を言い、地域連携の役割を担い、職員の労務や税関係の助言をするなど、地方公務員の経験を強みとして発揮していきました。

そうして保育園事務として2年目のころ、法人の姉妹園の主任職に空きができ、私に声がかかりました。私の働く法人の園では主任は園長に次ぐポジションです。担任保育士経験のない事務職を主任にするなんてこれまであり得ませんでした。そんな声掛けをしていただけたことは嬉しかったのですが、当時長男が不登校で、赴任予定の園は自宅からやや遠かったため、かなり悩みました。家族にも相談し、一度は断ろうかとも思いました。しかし最後は、自分の心の中の「やってみたい」という気持ちに正直になることにしました。

長男のことは心配でしたが、長男のせいにして自分のやりたいことを我慢するのは、かえって長男にとって良くないことだと思いました。とはいえ、法人には3年という条件をつけさせてもらいました。自分にとっての最優先はやはり家族だからです。万が一家族に何かあっても、任期に限りがあれば何とか頑張れると思いました。

 

そして今、私は定員120名の認可保育園の主任保育士となりました。

保育士経験3年、子どもの対応では悩み迷うことも多いです。そんな姿を見て職員は不安になるかもしれません。ですが経験が少ないからこそ気づく不適切もあります。幸いにも園長は大ベテランの頼れる先生のため、園長に教えを請い、不適切を正し、よりよい保育を目指しています。

また、放っておくとブラックになりがちな保育園職場をホワイトにしていくべく、日々働き方を考え、改革しているつもりです。保育園には様々な書類があり、行事があります。それらは子どもを保育している以外の時間に行わなければならないため、本当に放っておくと残業ばかりになります。また、保育園の運営時間は長いためシフト勤務となっています。シフトが決められてからは休みが取りづらいという心理的な圧力があり、有給の消化率は高くありません。子どもから離れる時間を意図的に作り、休暇を取りやすくすることが、主任にできる働き方改革の第一歩だと思っています。

ただ、最も力を入れているのは職員の人材育成とチーム作りです。3年と言う任期を自分に課している以上、3年後を任せられる人材を育成するとともに、自分がいなくても良い園を作っていける体制を作らなければなりません。たった3年でどこまでできるのか、でもやらなければなりません。適材適所の配置をしつつ、ときには厳しい対応をしながら職員を育て、職員同士が力を合わせていけるようなチームワークづくりに励んでいます。

 

そんなこんなで、保育士になって3年目の現在地は、保育士を目指した当初とは随分違う方向へ歩みだしています。保護者支援や虐待予防は主任として当然行ってはいますが、現実的には事案が少ないため園長や担任にやってもらうことが多いです。(もっとも、やはり保育士は「虐待対応」の経験がないため不慣れなのが現実です。)難しい仕事や失敗することも多いですが、やりがいを感じています。3年という約束が守られるのかどうかはわかりませんし、3年後に今度はどんな仕事を任せられるのかもわかりませんが、この経験が私を二回りは大きくしてくれていることは確かです。

長男、不登校になる⑱~エピローグ

長男が不登校になってから2年が過ぎました。

今、長男は高校を卒業後に始めたお弁当チェーン店のアルバイトを続けています。アルバイトの日はいつも、揚げ物の油まみれになったアルバイト先の制服を持って帰ってきます。その匂いは洗っても落ちず、他のものと一緒に洗うと他の服に匂いが移るため一緒に洗えません。

月の始めには生活費として1万円をくれます。その1万円は使わずにとってあり、今月で10万円になりました。長男は働きぶりを評価されたのか、半年ほどしたころ、社会保険に加入することになりました。その後、収入は月に手取りで15万円ほどになったようです。今年は扶養を抜くことになりそうです。

 

「高校を卒業してフリーターをしている」というと、将来不安じゃないか?と言われるかもしれませんが、不登校になり、病院に通い、ドン底を経験した長男を見てきた私からすると、何てスゴイことなんだろうと思います。長男も、昨年とは見違えるように、生きる自信に溢れているようにみえます。暑い日も寒い日も、何日も続けてアルバイトに行く日もあり、そんな姿を見ると逞しさすら感じるようになりました。

 

しかし、長男自身は不安を感じているようです。お正月に何気なく「今年は日記でも書こうかな」とつぶやき、実際に2日だけ日記をつけていました。(1月10日ごろまでに2回だけ日記をつけていました。)日記と言えば、不登校になり始めたころも日記をつけていました。私もそうですが、日記と言うのは人に言えない何かを抱えているときに、その思いをぶつけるために書きたくなるようです。悪いと思いつつも、リビングに放置されている長男の日記をのぞいてみました。

流行りのV-Tuberの話とか、アルバイト先の話とか、他愛のない内容が主でしたが、欄外に一言、「将来への不安から脱却する」と書かれていました。ああ、そうか。私は長男が頑張っていることを嬉しく頼もしく思っていたけど、長男自身はやっぱりアルバイトという身分に不安を感じているのだ。恐らく長男のアルバイト先には中年男性でアルバイトをしている人はいないのだ。長男の中では「真っ当な大人」はみんな仕事をしているものなんだ。長男には「焦る必要なんてないんだよ」と言いたくなりましたが、日記を盗み見したため伝えることはできませんでした。

 

そしてつい先日のことでした。長男と二人になったとき、ふいに長男が「やりたいことってどうやって見つけたらいいの?」と聞かれました。つい1年前はこんなことを相談もできなかったのに、やはり自信の表れか、それとも余程不安を感じているのか。でもこんな大切な相談を自分にしてくれることに、長男が自分をそれほどまでに信頼してくれていることに感激しつつ、その想いに応えなければと思いました。

あくまで私が思う「やりたいことの見つけ方」であって、正解はないと前置きしたうえで、長男にとって「好きと思えること」は何かと聞きました。「好きなこと」と「好きと思えること」は違い、「好きと思えること」は仕事として続けていくうちに「やりがい」へと変化すると思っています。仕事にやりがいを感じたら、多少辛いことでも乗り越えることができます。だから「好きと思えること」「好きになれそうなこと」は何かを考えたらどうかと伝えました。そしてやってみてやっぱり違ったと思ったら、また戻ればいい。何度もチャレンジして、いつか好きな仕事に巡り合えればいいんじゃないかと伝えました。

私自身も40歳を過ぎて転職をして保育士になりました。18年も働いてきましたが、自分のやりたいことととは違ったと思い、リスタートをしました。そんな私だからこそ、少しは説得力があったのではと思います。

長男はただ聞いていただけでしたが、何か心に残るものがあればと思っています。

 

長男は、これからも心配をかけながらも、壁にぶつかりながらも大人になっていくと思います。ときには大きく躓き、再び私の助けを必要とするときがくるかもしれません。私はこの2年間の長男との歩みを通じて、いつも長男が生まれた日のことを思い出していました。長男が生まれたその日、私は長男の親になりました。小さくか弱い泣き声をあげる長男を見て、一生この子と一緒に生きていきたいと強く思いました。赤ちゃんだった長男が大きくなることなど、そのときは想像していませんでしたが、今になってもやはり一生一緒に生きていきたいと思っています。導くでも支えるでもなく、一緒に生きていきたいと思っています。

長男、不登校になる⑰~進路

高校生生活も残り10日余りとなった頃、長男と私と学校の先生で最期の3者面談をしました。事前に私は電話で先生に経過を説明していました。前回までで書きましたが、経過は以下の通りです。

 

今のところ、長男は進学はしないという意思を示している。ならば消去法ですが「働く」という進路しかない。でもすぐに正社員として働くのは無理があるので、アルバイトをして社会経験を積む。そこで、3月中にアルバイトを決める約束をしている。しかし、残念ながら高校生活も残りわずかとなった今でもアルバイトの面接を受けている様子はない・・・。先生には、経過を伝えたうえで、長男にハッパをかけて欲しいと伝えていました。

 

さて、面接の当日。先生は、私がこれまで大変お世話になったお礼を伝えたのもそこそこに、さっそく長男に厳しく話し始めました。正直、私は、この「進路について」ということに関しては長男にはこれまで厳しいものの言い方をしてきませんでした。それは長男は厳しい言い方をすると心を閉ざしてしまい、話し合いにならないからです。小さい頃はそれでも通用したのですが、大きくなってからは長男自身で決めなければならないことも多く、話し合いにならないと何も進まなくなるのです。だからこそ長男の心に寄り添い、支えてあげる立場を貫いてきました。しかし先生はそんなことはお構いなしに、厳しい口調で「一体これからどうするんだ?」と迫りました。そして案の定、長男は心を閉ざしました。

先生は面談は「30分」と考えていたようでした。しかし長男は先生からの問いかけにウンともスンとも言わなくなっていました。時間だけが過ぎ、予定の30分も過ぎました。先生はこれで面接を終わらせようと、話をまとめに入りましたが、この時点で面接の成果はまったく見られませんでした。そこでついに、先生にも「根競べに付き合ってやろう」という意思が沸き上がるのを感じました。約束の30分を超えて1時間でも2時間でも付き合ってやろうという覚悟を感じました。

結局、面接は1時間半に及びました。根負けしたのは長男の方でした。面倒くさそうな感じで「じゃあそれでいいです」と長男が言えば、「じゃあって何だよ」と先生が言う。そんなやり取りが何度か繰り返された結果、長男は「4月3日までにアルバイトの面接を受ける」という約束をしました。アルバイトを始めるには長男の能力的な問題もありますが、面接を受けるだけなら誰でも受けられるはずです。だから「面接を受ける」ということを目標として約束しました。

今になって思うと、先生の気迫には驚かされました。大体の3者面談では親の目を気にして先生は子どもに優しくなりますが、この先生は違いました。そして根競べにも勝ちました。親だからこそ寄り添わざるを得ない、だからこそ先生に厳しいことを言ってもらう。それを見事に体現してくれました。

面接を終えて外へ出ると、空は暗くなっていました。長男の不登校昼夜逆転に悩み、何度も相談に乗ってもらった高校でした。もう二度と先生に会うことも学校に来ることも、相談に乗ってもらうこともできないと思うと、生徒である長男よりも私の方が不安になっていました。厳しいことを言われて落ち込んだりイライラしているであろう長男とはあまり学校のことは話さずに、どうでもいいことを話しながら帰りました。

 

長男のアルバイトが決まったのは、それから10日ばかりした後のことでした。

先生との約束通り、アルバイトを探し始めていることは何となく感じていました。そんな長男が突然「マイナンバー?ってある?」と聞いてきました。アルバイトが決まったんだ!と瞬間爆発的な喜びが私の中で弾けましたが、長男の気持ちや負担になってもいけないと配慮して、極力いつも通りマイナンバーを教えたのち、「アルバイト、決まったの?」といつもの調子で聞きました。

決まったアルバイト先は近所のお弁当チェーン店でした。そこは長男が病院に通うようになった夏ごろに、接客は難しいだろうからと厨房であまり多くの人と関わらずに働けるところとして、私が探して紹介したところでした。多くは語りませんが、きっと自分が働ける場所ということで、私のアドバイスを少しだけ聞いてくれたのではないかと思います。夕方から夜までの5~6時間を週3~4日、厨房の揚げ物パートで働くという仕事で、当面はあまりレジには出ないということでした。

そして、4月からアルバイトを始めました。先生には約束の4月3日に、メールで結果をお伝えしました。電話で伝えた方がいいとは思いましたが、私自身が仕事で忙しかったため、メールにしました。先生からも返信があり、とても喜んでくれている様子が伝わってきました。先生としても、恐らく最後まで心配だった子の一人である長男がなんとか進路を決めることが出来たことに、肩の荷が少しだけ軽くなった思いだったのではと思います。

 

とにもかくにも、長男は自分の力で進路を決めることができたのです。

長男、不登校になる⑯~卒業

高校卒業まで1か月を切り、学校の先生と面談をしてきた私は、帰宅後すぐに長男と進路については話し合いました。

私は、親である私が長男の進路を決めてしまったり導いてしまったり、あるいは私の考えが長男の決断に影響を与えてしまうことは避けたいと考えていました。あくまで長男自身に自分のこれからのことを決めてもらいたかったのです。しかし私と話をする以上、どうしても私の気持ちが入り込んでしまいますし、何もないところから話ができるほど長男は柔軟ではありません。

そこで、まず学校の先生は長男の能力を評価していたこと伝え、勉強を続ければもっと可能性が広がるかもしれないと言っていたと伝えました。進学は今の長男にとっては難しい進路だと考えていたため、敢えて先に話を出しました。すると長男は、「進学をしても通い続けられるかわからない」と答えました。長男なりにきちんと考えており、不登校だった自分を自己分析していたわけです。

それなら、「働く」ことになると伝えました。ただ、学校の先生から、いきなり正社員としての働くのは大変だし、これから急いで探すと条件の悪い職場になってしまうこともあると聞いたと伝えました。あくまで私の意見ではなく、学校の先生から聞いた話として伝えました。また、働く練習をする場所として就労移行支援のこともパンフレットを見せて話しました。長男としては、これらの話を聞いてまた悩んでしまったようでしたが、「進学」という進路が消えたことで、選択は絞られたように感じられました。

この日の話し合いは、一旦ここまでにしました。

 

数日後、中学を卒業して高校に進学する長女のこづかいについて家族で話をしているときのことでした。

冗談めかして長男が「俺もこづかいがほしい」などと言い出しました。私や妻は高校を卒業したら自分で稼ぐんだとツッコんだんですが、ついでにこれからはこづかいを貰う側ではなく、あげる側(家にお金を入れる側)になるんじゃないかと話しました。「え~」といいつつも「いくらくらい?」と聞いてくるので、「給料の5%くらいかな」と適当に答えておきました。「じゃあ10万円なら5千円か」などとぶつぶつ計算しているようで、どうやら働くことを考えているようでした。

長男はこの頃、卒業という目標を達成した自信からか、日常の会話の中で今後のことを話してくれるようになっていました。以前は妻が話しかけてもほとんど応えてくれないため、私が二人きりの時間を作って話し合いをしていましたが、妻とも進路について話すようになっていました。成功体験が長男をさらに成長させてくれたようです。

 

3月12日(土曜日)、長男は晴れて卒業式を迎えました。

 

通信校ですが卒業式は学校で行うことになっていたのですが、コロナのため直前でオンライン開催に変更になりました。長男は照れ臭いのか、興味のないフリをして別の部屋へ行ってしまったため、私と妻がオンライン上で出席しました。

いつもお世話になっている先生から長男の名前が呼ばれたとき、ようやく卒業をするんだなと実感が湧いた気がしました。長男自身も不安だっただろうし、簡単な課題を提出するだけでも大変な頑張りが必要だったに違いありません。しかし、思い返すと私たち親も本当に不安で心配しました。時には裏切られて落ち込み、仕事が手につかないことも多々ありました。それでも一歩一歩前に進み、今日と言う日を迎えたのです。卒業という壁を越えても進路という壁があったため、前に進んでいるのかわからなくなっていましたが、卒業式のこの瞬間が、長男が間違いなく前へ進んでいることを改めて教えてくれました。

それから数日後、あらためて卒業証書が自宅に送られてきました。

 

さて、卒業式は済んでも長男の進路の話は終わりません。数日後、改めて長男と話をしました。先ほども書いた通り、長男は働くことを考えているようでした。就労移行支援の話もしましたが、いまいちピンときていないようで、選択肢に挙がっていないようでした。そのため、週に数回でもいいので、アルバイトから始めることにしました。ただ、長男はまだ18歳です。やりたいことが見つかったらいつでも大学や専門学校を目指しても構わないと伝えました。

夏ごろにアルバイトの面接を何度か受けたけど採用に至らなかった苦い思い出があります。その失敗体験から、再び面接に挑戦することができるかどうか心配でした。実際、その後長男はアルバイトを探している様子はあるものの、なかなか面接を受けには行けていないようでした。

 

3月も残り2週間を切った頃、学校の先生と最期の面談をすることにしました。最期の面談は、長男を交えた3者面談でした。長男にはお世話になった先生に最後の挨拶をしに行こうと誘い、先生には長男にハッパをかけてもらいたいとお願いをしました。

長男が不登校になったことにより始めたこのブログですが、卒業を迎えたことにより、長男はもう「不登校」とは言えなくなりました。そのため「長男、不登校になる」というタイトルは次で最後にしようと思います。次回、残り10日ほどの記録を記します。

長男、不登校になる⑮~卒業への道

長男が不登校になって1年が経過しました。1年・・・40過ぎの私にとっての1年はさほど長くはありませんが、長男のことを考えると、とてつもなく長い1年だったように感じます。

ちょうど1年前に年末年始の休みが明けて、高校へ通うことができなくなり、不登校になってしまった長男。通信制高校編入し、一度は昼夜逆転した生活まで堕ちたもののクリニックに行くことで生活リズムを取り戻し、再び定期的に登校し始めていました。私はそんな一年前のことを思い出し、年末年始の休暇が明けるとまた学校に行かなくなるのではないかと危惧していました。しかし、長男は年が明けても学校に行きました。

年末年始の休暇を利用して、私も学校の先生にメールを出していました。長男は一応高校3年生なので、年が明けると卒業目前ということになります。週に1~2回とはいえ、学校の課題はどれだけ提出し、卒業は可能なのか、それを確認するためでした。先生からの回答は、私の心配を吹き飛ばしてくれました。

 

先生によると、12月に頑張って通ったため、すでに定期テストやスクーリング課題は終えており、あと1回登校すれば終わる程度しか残っていないとのことでした。さらに、先生は卒業後の進路についても心配をしてくれていました。私はすぐにでも長男の頑張りを言葉にして褒めてあげたいところでしたが、まだ1回残っているとのことだったので気持ちを抑え、まだそっとしておくことにしました。

すると長男は、メールの回答のあった翌日、何も言わずに学校へ行きました。先生の話を信じれば、これで卒業はできるということです。世の中の大半の高校生にとって、「卒業」は目標ではなく通過点でしかありませんが、高校に通うことが難しかった長男にとっては間違いなく目標だったし、一時はその目標すらも朧げでした。しかし、長男は自分の力でそれを克服し、いま勝ち取ろうとしています。私たち親や学校の先生、クリニックなど、色々なサポートはありましたが、最後は自分の力でやり遂げるしかありません。目標を達成することができた長男の成長を、私はとても嬉しく思いました。もっとも、その時の私の心境は「嬉しい」というより「安心した」「一息ついた」と言った方が適切でした。なにせ冒頭でも言った通り、前の学校で留年を言い渡されたときには、3年間で高校を卒業することはできないと思いましたし、体感的には3年以上高校生活をしていたような気がしていましたから。それほど長い長い道のりでした。

 

一応1月下旬に、母親が学校で先生と直接面談し、卒業するための単位はすべて取得することが出来たことを確認しました。しかし人生は高校を卒業した後も続いていきます。高卒資格も大切ですが、卒業後に何をするかの方が、人生においては重要です。一つ壁を乗り越えたら、また壁。卒業を前に長男と進路について向き合わなければなりませんでした。

長男の最後の登校の際に、先生から長男に、進路について話をしてくれているはずでした。ですから1月中は長男なりに考える期間としていました。しかし何のアクションも見せないまま2月を迎えたため、改めて長男にどう考えているか訊いてみました。

 

長男の応えは、「どうしていいかわからない」ということでした。

卒業まで2か月を切ったこの期に及んで「わからない」というのは、普通だったら悠長すぎる話ですが、不登校で引きこもりの長男を「待つ」のには慣れっこです。

私はまず、将来の進路は無限にあるということを伝えました。その上で、差し迫った卒業後の進路としては、大きく分けて2通り考えられるのではないかと伝えました。大学や専門学校などへ行って「勉強をする」か、アルバイトでも何でもいいので「仕事をする」か。それ以外にも選択肢はあるのかもしれませんが、細かい選択肢は置いておいて、まずはおおまかにどちらかを選んではどうかと伝えました。長男としては、まだ決められないとのことだったので、考える時間を与えて、改めて話し合いをしようということにしました。

 

次の長男との話し合いまでの間に、私は学校の先生と面談をすることにしました。これから長男と進路について話し合っていく中で、どんな声掛けをしていけばいいか、そのヒントをもらえればと思っていました。学校の先生と直接会うのは2度目でしたが、メールでのやりとりを頻繁にしていたため、まったく久しぶりという感じはしませんでした。

 

まず先生からは、長男は自分で思っているほど能力がないわけではないと言ってもらえました。通信制の高校なので色々な課題を抱えた子が通っており、先生の経験上、長男は決して能力が低いわけではないとのことでした。やる気があるなら勉強を続けて欲しいし、本当は何かやりたいことがあるけど、自信がないだけではないかと。長男と話し合う中で、実は私も同じように感じることがありました。しかしだからと言って、今の長男が4月から改めて大学を目指したり専門学校に通うことはできるでしょうか。人はそんなに急に変われるものではありませんし、長男にそれだけの強い動機があるようにも思えません。先生に認めてもらえたのは有難かったのですが、現実的には進学は難しいと感じていました。

一方で、先生は高校を卒業していきなり職に就くのは難しいということも言いました。高校にも企業から求人情報は来ているそうですが、言い方は悪いですが肉体労働が多いそうで、余程やりたいことでない限りは続けることが難しい。給料や待遇もあまりよくないこともあるとのことでした。引きこもり状態の長男が卒業後にいきなり正社員として働くのは現実的ではないのはわかっていました。しかし能力的に低いわけではないと言われたあとだけに、道のりは長そうだと感じました。

面談の結果として、先生からは専門学校のパンフレットを数冊と、就労移行支援の事業所のパンフレットをいただいてきました。就労移行支援について、先生はそれほど詳しくはないようでしたが、自立支援医療制度を利用している長男は利用対象であると思っていました。このまま自分で動いていけないようなら、卒業後も何らかの支援が必要です。私たち親の相談先も必要です。就労移行支援は自力での就労が難しい場合にサポートする制度で、最長2年間、生涯で何度も利用できる制度ではないため、長男にとって安易に選択する進路ではないと考えていましたが、進路の一つとして見せておく必要があるとも思いました。

 

帰宅後、数冊のパンフレットを手に、長男と進路についての話し合いに挑みました。高校卒業まであと1か月に迫っていました。

長男、不登校になる⑭~クリニックからの逃避と登校

長男は9月の終わりにクリニックから逃げて「徒歩4時間事件」を起こしたものの、その後翌週からまたクリニックに通い続けました。10月にはそのおかげで昼夜逆転だった生活リズムが改善し、昼間は起きていられるようになりました。まずはその間の経緯を説明します。

 

初めてクリニックに行き、投薬を選択した長男でしたが、当初は薬を飲むのに抵抗感があったのか、私が勧めなければ飲まないし、時間通りにも飲まない状態でした。しかし、3回目くらいに行ったときに、先生からそのあたりの指導を受け、また長男なりに少しずつ効果が実感できたのか、毎日夕飯後に薬を飲むようになってきました。もちろん初めのうちは私が声を掛けていましたが、そのうち声を掛けなくても自分で飲むようになりました。

同時に、先生から散歩にでかけて日の光に当たることで体内のリズムが整うとアドバイスを受けました。そのせいか、数日おきではありますが、昼間に外出するようになりました。アルバイトの面接を受けに行くときもあったようですが、単に歩いて近所のショッピングモールへ出かけていることもありました。

そんな明るい兆しの見え始めた受診開始1か月後に「徒歩4時間事件」を起こし、薬や散歩もやや後退したのですが、なんとかクリニックにも再び行くようになり、薬を飲んで昼間は散歩をして身体を動かすことを続けるようになりました。そうなると改善は早く、クリニックに通い始めて2か月後の10月にはだいぶ症状は改善し、11月の終わりには薬を止めることになりました。

 

しかしそうなると長男がクリニックに通う理由がなくなってしまいます。私としては前回も書いた通り、大人の人とコミュニケーションをとる機会のない長男が、カウンセラーさんと対話をすることで自分を表現する力を養ってもらいたいと考えていましたので、通い続けてもらいたかったのですが、当の長男はそんなに課題に感じていないのか、受診へのモチベーションが下がってしまっているようでした。先生も長男には通ってもらいたかったようで、コミュニケーションスキルを磨くデイケアプログラムに誘ってくれましたが、長男は了解しませんでした。

 

そんな折、学校の先生から久しぶりにメールがきました。久しぶりだったので先生も家での様子を伺う内容でしたが、私も膠着状態になりつつある長男が心配だったため、先生には家での様子を正直に伝え、長男にも先生からメールがあったことを伝えました。さらに数日後、先生から直接電話をいただきました。どんな話をしたのかわかりませんが、直接先生と長男で話してもらいました。時間にして数分程度でしたが、「学校に行く」という約束をしたようでした。私は「徒歩4時間事件」以来、気持ちが折れて長男に厳しく言うことがなくなっていましたが、この日は少し厳しめに、先生との約束を果たすように言いました。そして翌日、長男は2か月ぶり登校しました。

 

何度も言うように、長男の高校は通信校ですから、課題さえ提出していれば登校する必要はありません。年に何回か設定されたスクーリングと定期試験だけは受けなければなりませんが、この年はコロナ禍のためすべてオンラインとなり、本当に登校する必要はありませんでした。しかし長男は課題もオンラインも受けていなかったため、先生と学校で一緒に課題をするという約束をしていたのです。

たった1日登校しただけで、私の心は晴れやかでした。将来は長男と田舎に引っ込み、二人で自給自足の生活をしていこうかと真剣に考えていました。長野県の格安物件も調べていました。たった1日の登校が、そんな思考を吹き飛ばしてくれました。翌週にも1日だけですが、登校することが出来ました。

ただ、登校した日は両日とも金曜日でした。金曜日はクリニックの予約をしている日です。長男にはクリニックよりも学校を優先するように言ってあるので何も言いませんでしたが、仕事を午前中で切り上げて帰ってくると長男は家に居らず、クリニックの予約を取り消すということが続きました。クリニックから逃げているのは明らかです。しかし怪我の功名と言うか、そのおかげで学校に行くようになったわけです。

何回か同じことを繰り返したのち、確信に変わったため、長男にはクリニックの予約をしてあると嘘をつき、自分も仕事の休みを取らないようにしました。それでも長男は金曜日になると登校しました。

 

そんないい兆しの中、年末を迎えました。年始が来ると、長男が高校を行かなくなって1年が経過します。私にとって長い長い1年間でした。きっと長男にとってはもっと長い1年だったと思います。私が心配で不安だったように、長男もきっと不安だったでしょう。そう考えると、この1年間は、妻も含め私たち家族が同じ思いで歩んできた1年だったのではないかと思います。いつかきっと家族にとって良い思い出となってくれると信じています。