ひろしせんせーのひとりごと。

44歳の脱サラ保育士ひろしせんせーが書いています。

長男、不登校になる⑭~クリニックからの逃避と登校

長男は9月の終わりにクリニックから逃げて「徒歩4時間事件」を起こしたものの、その後翌週からまたクリニックに通い続けました。10月にはそのおかげで昼夜逆転だった生活リズムが改善し、昼間は起きていられるようになりました。まずはその間の経緯を説明します。

 

初めてクリニックに行き、投薬を選択した長男でしたが、当初は薬を飲むのに抵抗感があったのか、私が勧めなければ飲まないし、時間通りにも飲まない状態でした。しかし、3回目くらいに行ったときに、先生からそのあたりの指導を受け、また長男なりに少しずつ効果が実感できたのか、毎日夕飯後に薬を飲むようになってきました。もちろん初めのうちは私が声を掛けていましたが、そのうち声を掛けなくても自分で飲むようになりました。

同時に、先生から散歩にでかけて日の光に当たることで体内のリズムが整うとアドバイスを受けました。そのせいか、数日おきではありますが、昼間に外出するようになりました。アルバイトの面接を受けに行くときもあったようですが、単に歩いて近所のショッピングモールへ出かけていることもありました。

そんな明るい兆しの見え始めた受診開始1か月後に「徒歩4時間事件」を起こし、薬や散歩もやや後退したのですが、なんとかクリニックにも再び行くようになり、薬を飲んで昼間は散歩をして身体を動かすことを続けるようになりました。そうなると改善は早く、クリニックに通い始めて2か月後の10月にはだいぶ症状は改善し、11月の終わりには薬を止めることになりました。

 

しかしそうなると長男がクリニックに通う理由がなくなってしまいます。私としては前回も書いた通り、大人の人とコミュニケーションをとる機会のない長男が、カウンセラーさんと対話をすることで自分を表現する力を養ってもらいたいと考えていましたので、通い続けてもらいたかったのですが、当の長男はそんなに課題に感じていないのか、受診へのモチベーションが下がってしまっているようでした。先生も長男には通ってもらいたかったようで、コミュニケーションスキルを磨くデイケアプログラムに誘ってくれましたが、長男は了解しませんでした。

 

そんな折、学校の先生から久しぶりにメールがきました。久しぶりだったので先生も家での様子を伺う内容でしたが、私も膠着状態になりつつある長男が心配だったため、先生には家での様子を正直に伝え、長男にも先生からメールがあったことを伝えました。さらに数日後、先生から直接電話をいただきました。どんな話をしたのかわかりませんが、直接先生と長男で話してもらいました。時間にして数分程度でしたが、「学校に行く」という約束をしたようでした。私は「徒歩4時間事件」以来、気持ちが折れて長男に厳しく言うことがなくなっていましたが、この日は少し厳しめに、先生との約束を果たすように言いました。そして翌日、長男は2か月ぶり登校しました。

 

何度も言うように、長男の高校は通信校ですから、課題さえ提出していれば登校する必要はありません。年に何回か設定されたスクーリングと定期試験だけは受けなければなりませんが、この年はコロナ禍のためすべてオンラインとなり、本当に登校する必要はありませんでした。しかし長男は課題もオンラインも受けていなかったため、先生と学校で一緒に課題をするという約束をしていたのです。

たった1日登校しただけで、私の心は晴れやかでした。将来は長男と田舎に引っ込み、二人で自給自足の生活をしていこうかと真剣に考えていました。長野県の格安物件も調べていました。たった1日の登校が、そんな思考を吹き飛ばしてくれました。翌週にも1日だけですが、登校することが出来ました。

ただ、登校した日は両日とも金曜日でした。金曜日はクリニックの予約をしている日です。長男にはクリニックよりも学校を優先するように言ってあるので何も言いませんでしたが、仕事を午前中で切り上げて帰ってくると長男は家に居らず、クリニックの予約を取り消すということが続きました。クリニックから逃げているのは明らかです。しかし怪我の功名と言うか、そのおかげで学校に行くようになったわけです。

何回か同じことを繰り返したのち、確信に変わったため、長男にはクリニックの予約をしてあると嘘をつき、自分も仕事の休みを取らないようにしました。それでも長男は金曜日になると登校しました。

 

そんないい兆しの中、年末を迎えました。年始が来ると、長男が高校を行かなくなって1年が経過します。私にとって長い長い1年間でした。きっと長男にとってはもっと長い1年だったと思います。私が心配で不安だったように、長男もきっと不安だったでしょう。そう考えると、この1年間は、妻も含め私たち家族が同じ思いで歩んできた1年だったのではないかと思います。いつかきっと家族にとって良い思い出となってくれると信じています。